野田祐機のブログです

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東北復興 非営利活動

福島に行ってきました

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いきなりですが福島からの帰りの新幹線ではずっと寝てました。東京について、涙がでそうになりました。体も疲れてる、心も疲れてる。ご飯を食べて、家でお風呂にはいってようやく元気が出てきました。
センシティブな話なので、この記事をブログに書くか迷ったのですが、facebookのノートではなくブログにかきたいと思います。写真は上のものだけ、被災の写真はのせませんので良かったら読んでみてください。

おとといから東北にいってきました。木曜の夜に夜行バスで仙台へ。金曜日は助けあいジャパンの情報レンジャーのみなさんに同行させていただき、一泊して、今日、仙台から海岸線を通って福島まで視察にいってきました。友人の天野さんと一緒にガイガーカウンターも持って車で行ってきました。

仙台から福島までの海岸線。津波の被害を見ました。私も天野さんも陸前高田や南三陸を見ていたため、津波の被害や光景には少しだけ慣れていたところがありました。
最初は「ここまで水が来たんですね」とか「ここは前は線路だったんですね」とかという話。 途中で山元町の小学校にも寄る。
体育館の建物はあるものの、中は壁が落ち、津波の被害が大きかったことがすぐわかる。校舎も残っているが2階までぜんぶ水に浸されていたのが確認できた。校庭にはたくさんの車が山積みになっている。少し片付けて、あとはそのまま。 そんな状況だった。

海岸線を通り、相馬の港へ。 復旧中のためもちろん立入り禁止。 近く海岸線を進むと右手には被災した家が並び、左手には海が見える。この海は去年までは海水浴場だったようだ。しばし、ベンチに腰をかけて、静かに波の音、潮の香りを感じる。 海から来た津波が街を破壊しているのに、今はすごくおだやかな海。なんともいえない感情だった。

その後、しばし車を走らせ、昼ごはんをいただく。復興丼のホタテ丼を食べる。
陸前高田で購入した復興Tシャツを着ていたからなのか、お店のおばちゃんが話しかけてくれる。
「お兄ちゃんたち、どこから来たの? どこかに泊まってるの?」 そこから、いろんなお話を伺う。街には人がいない。車もほとんど通らない。人がくるだけで嬉しいみたいだった。 確かに運転しながらすれ違う車は少ない。
漁業も農業も壊滅的なダメージを受け、仕事が無い。 これからのことを考えると不安になる人が本当に多いようだ。
福島は宮城や岩手とは全然違う。 このときそう思ったのだが、ここはほんとに序の口だった。ちなみにこれまでガイガーカウンターの数値は0.3 mcSv/hを超えることはなかった。(東京でも0.1-0.2 mcSv/h) 年間に換算して2.4ミリシーベルトと、世界的に浴びる放射線量とかわらない「普通の放射線量」のレベルだ。放射線についてはこちらこちらを

さらに車を走らせ南相馬へ入る。山を越え、家やお店がでてきたので、
「コンビニあったら寄りましょうか?」と天野さんと話をしていた時、お店がしまっていることに気づく。急いで車を止め、近くまでみると、ガソリンスタンドもコンビニもホームセンターにも人がいない。
ホームセンターに関しては、外にレンガや肥料、脚立がそのままの状態。近くの畑には車が当時の状態で陥没している。

時間が止まっている。この言葉の意味がはじめて分かった気がした。もちろん、近くの民家にも人はいない。 街はある、だけど人がいない。それが福島の状況だとも気づいた。車でいけるところまで行き、警察のバリケードのある立入り禁止場所で引き返した。この立入り禁止の場所でのガイガーカウンターの数値は1.0mcSv/h(8.96ミリシーベルト/年)だった。人が年間で許容できる放射能量はだいたい20ミリシーベルト/年 とされているので、他の場所よりは高いものの、それほど高い数値ではない。

海岸線から福島市に車は向かう。ここから、ガイガーカウンターの数値は局地的に1.0mcSv/hをこえるところもあった。途中、最高で2.0 mcSv/hを超えるところがあり、ガイガーカウンターがなり続け、表示も赤くなる。 年間で20ミリシーベルトを超えると危ない放射線量ではあるのだが、短時間であればそれほど影響はない。 しかし、鳴り響くガイガーカウンターの音、目に見えないという恐怖が車の中にはあった。

走り続けても民家に人はいない。地震で崩壊した家も途中に何棟もあった。震災のときからそのまま。 少しは片付いているものの、1年たってもこの状況、宮城や岩手とは少し違う放射能の影響というものが肌で感じることができた。
車で走る距離はそうとうのもの、その間にも1.0mcSv/hを超えるところはたくさんあった。除染の基準がこのレベルだとすると、除染にかかる期間、費用は相当なものになる。 車の中は自然と無口となっていた。

福島市が近づくにつれて、車も多くなり、コンビニも空いている。人がいるって嬉しいものだ。
建物はあるけど、人がいない。人の気配がない場所を通るたびに、ひょっとして将来の日本の田舎はこうなのか? といらぬ心配もした。

改めて書くが、立入り禁止地域にはいらなければ短時間の放射線は体に影響は少ない。それでも、自分は鳴り響くガイガーカウンターが怖かった。

最初に書いたが、福島から東京までの新幹線ではずっと寝ていた。体も疲れていたし、頭も混乱していた。 東京について起きた時に、怖かった。それは、あの光景、事実をしったときに、どのように立ち向かって支援をすればよいのか? という、福島の問題は途方もなく大きく感じたからだ。 事実、除染の範囲は広いであろうし、一度人口が流出したあの街に人々の活気が戻るには10年、いやそれ以上かかるのかもしれない。そんなことを考えると、怖かった。

でも、自分の周りにはそんな東北の課題に立ち向かっている人たちがいっぱいいる。瓦礫の問題も除染の問題も、雇用も地域の活性についてもだ。
一人ではできない。だけど、今こそ日本として、日本人がみんなで課題に取り組む必要があると思った。 大きなチャレンジだと思う。ほんとに大きい。みんな一人ではできない。ボクもできません。 今日、横に天野さんがいてくれてよかった。助けあいジャパンのみなさんがいてくれてよかったし、自分にはそんな仲間がたくさんいることが嬉しくなった。

東北が被災した。宮城も岩手も福島も、それぞれに状況は違う。人にフォーカスすると、東北にいる人たちそれぞれに状況は違う。 ひとくくりにエイヤー!で解決策は絶対でないし、日本が真剣に取り組むべき課題だと感じています。

あえて、ブログに書いたのには、少しでも現状をお伝えしたかったから。そして、やっぱり力を貸してほしいです。東北の人も、支援している人も、自分自身も、一緒に取り組む仲間が必要です。ことの大きさに改めて私は打ちのめされかけました。そんな時、石川さんからもらったメールが泣くほどうれしかった。 一緒にがんばろう。その言葉に人はどれだけ勇気づけるのかを学びました。

読んでいたいているみなさん、良かったら復興支援、これからもよろしくお願いいたします。
自分も微力ながら取り組み続けます。時間はかかるけど、よかったらみんなで助けあって一緒にやりましょう。助けあいジャパンも続けます。

読んでいただいてありがとうございました。 また、明日からがんばります。

  • この記事を書いた人

野田祐機

外資系企業、NPOを経て、2016年に株式会社forsistersを起業。eiffelという手紙サービスをやっています。 28歳からブログを始め、コミュニティーやこれからのトレンド、古典、英語学習などの記事を書いています。 プロフィールはこちらから http://learnbydoing.jp/aboutme/

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